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ファールーク1世(Farouk I または Faruq I, アラビア語:, 生没1920年2月11日 - 1965年3月18日)は、エジプトの国王(在位1936年 - 1952年)であり、エジプトを最後に支配した君主である。ファルーク1世とも表記される。 == 生涯 == 1920年、フアード1世と二番目の妻ナーズリー・サブリーの息子として生まれる。王宮からほとんど出さずに育てられ、遊び相手は妹たちだった。14歳でイギリスのウーリッジ陸軍士官学校に留学。他の大英帝国支配下のアラブ諸国の国王たちと同様にイギリス傀儡王になるための教育を施されて育った。 1936年に父親が死去すると帰国して国王に即位した。翌年、最初の美貌の妻と結婚して国民から歓迎された。国王とはいっても相変わらずイギリス軍のエジプト駐留は続いており、実質的統治権は駐エジプトイギリス大使マイルズ・ランプソン(後の初代キラーン男爵)に握られていた。ランプソンはファルークを「あの子」と呼んで、はじめは恩着せがましく、後には軽蔑的な態度で接したが、大英帝国の力の衰退を感じていたファルークはしばしばこれを鼻であしらってイギリスに反抗的な態度を取るようになっていった。 第二次世界大戦が勃発し1941年にドイツのロンメル将軍が率いるアフリカ軍団がエジプトに迫ると協力してイギリスを追い出すべきだとする世論が強まった。ファルークもイギリス軍をエジプトから叩き出すチャンスと見て反英内閣の樹立を決意した。しかしこれに焦ったランプソンは、1942年2月にファルークに対して反独派のを首相とするイギリス傀儡内閣を樹立することを要求した。ファルークがこれを拒否するとランプソンは国王の宮殿を英軍に包囲させ、もし要求に応じないなら英軍はファルークを拉致し、紅海上の巡洋艦に幽閉するだろうという脅迫を行った。結局ファルークはこの脅迫に屈してナハス内閣を樹立させた。 この事件はイギリス植民地支配とその傀儡政権ナハス内閣に対するエジプト人の反発を高めるとともにイギリスの脅迫に屈服した国王の人気も急落させた。こうした不満をそらすために政府首脳の反対を押し切って1948年、第一次中東戦争に参戦するが軍司令部の準備不足から敗戦。国王の威信を完全に失墜させた。 そしてイスラエルとの戦いに敗れて帰国したムハンマド・ナギーブとガマール・アブドゥン=ナーセル率いる自由将校団が1952年に起こしたクーデター(エジプト革命)により王位を追われ、息子のフアード2世が王位を継承するものの、翌年に廃位され、ムハンマド・アリー朝は終焉を迎えることになる。同年7月26日、ヨットに財産を詰め込み軍に見送られながら亡命先のヨーロッパへ出航した。到着先でも華やかに生活して1965年に食事中に死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ファールーク1世 (エジプト王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Farouk of Egypt 」があります。 スポンサード リンク
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